桜の家の前にある椅子が、今日に限って空いている。

 僕はいまだ荻島にいた。正確には、一回島から故郷の仙台へと戻ってみたが、また帰ってきてしまったの方が正しい。何故かは僕にも分からなかった。僕が育ち、恋に落ち、夢を見たあの地は、しかし今更戻ったところで希望も展望もない。島にいれば少なくとも先を憂う気持ちは湧いてこないから。いつか戻らなくてはならないというのはわかっているが、もう少しだけ猶予をもらっても許されるだろう、と僕の心はいつまでも言い訳がましい。いっそ幻の如く忽然と島が消えていればよかったのに、轟を見つけるのは容易く、島へ戻るのはもっとあっけなかった。

 ここへ来てからは日がな轟の手伝いをして過ごしている。流石に島にいて何もすることがないというのはひどく退屈で、日が落ちるのを待つだけの日々には最初の数日で飽きてしまった。轟や、草薙夫婦の好意によって衣食住の心配はなかったが、なんとなく手持無沙汰なのでむりやり手伝わせてもらっている。今日は轟の家に行ったが留守で、札がかかっていたので、仕方無しに島を散歩していた。先日、城山から逃げるようにこの島へ転がり込んできた時から、もう数か月経っている事に驚く。まるで濃い日々が続いていたので、今のこの淡白な生活が少し怖い。幸せが続くと、後で使った分だけ取り立てられるのではないか、と勘繰ってしまう。何を、と言われると困るが、何かをだ。
「……あ」
 足の赴くまま無意識の内にたどり着いたこの場所に、僕自身が一番驚いてしまう。特に会いたいと願っていたわけでもなかったのに、知らぬ間に白い柵が並んだ綺麗な平屋の前にいた。家のそばには小さな花壇がある。桜が蒔いた種は、もうとっくにきれいな花を咲かせていた。いろいろな色の花がどれも見事に咲いていて、見つめていると自然と笑いがこぼれてくる。

 そしてふと、目の前にある椅子が寂しげに佇んでいることに気付く。いつも桜が詩の本を読んでいる椅子だった。持ち主がいないそれは、今か今かと主人の帰りを待っているようにも見えた。椅子の隣の丸テーブルには、読みかけの詩集もおいてある。――桜は、どこかへ出かけているのだろうか?
 なんとなく、椅子に腰をかける。せっかくここまで来たわけだし、そういえば、島へ帰ってきてからは一言も言葉を交わしていない。彼がどう思っているかはわからないが、僕からすれば彼はヒーローだし、気のおけない友人だった。帰ってくるのを待つぐらいは許されるだろう。勝手に椅子に座ったからと言って拳銃を僕に向ける桜は想像つかない。
 椅子はぎ、と暫く揺れたあと、不意に静かになった。まるで主人以外の人間を座らせまいとしたが、諦めてふてくされたように思えて、僕はまた笑う。桜が見たらどう思うだろう?この光景。それから、ふと考える。桜は一体どこに行っているのだろうか?

 考えて、まるでタイミングを見計らったかのように、パァン、と風船が弾けるような音が向こうの方で響いた。ああ、あれは拳銃の音だな、と冷静に判断している自分がいる。その音が恐ろしいと思わなくなったのはいつからだろうか。荻島へ戻ってきたばかりの頃は、あの音が聞こえる度にびくついていた記憶がある。
 桜がまた狩ったのだ。それはきっと弱き誰かを救ったのだろう。桜には何か普通の人にはない力がある。それこそ世界をも救えるくらいの、ヒーローみたいな。
 馬鹿らしくて、溜め息が出た。いくら城山を撃退してくれたといっても、本土へ戻れば彼は一介の人殺しに他ならない。重く深い罰を受けるべき人間なのだ。でも、この島では罪ではない。よって罰を受ける必要はない。僕は、桜がこの島に生まれてくれて本当によかったと思う。
 僕のヒーロー、みたいな人。
 僕はもう一度溜め息をついて、今度は静かに目を瞑る。まだ昼間であったが、今日も轟の手伝いをするつもりで早起きをしたのでまぶたがじっくりと重みを増している。たまの休みだ、ちょっとだけ眠ろう。とはいえ、轟の手伝いも自分から言っているだけで強制ではないし、それに彼の仕事はあまりにも他愛ない。まるで、僕に何か重大な責を負わせるのを厭うようだった。だが、簡単な仕事とはいえ見えない疲れはあったのだろう、視界が徐々にぼやけてくる。またたきの回数が減り、やがて全く動けなくなる。
 別に桜の椅子でなければならないわけではなかったが、なんとなく、ここがいいと思った。さわさわと風が吹いて、木々が擦れ合う音がする。それらは子守唄のように僕の頭に静かに響く。ふわりと僕の頭に何かが降ってきた。柔らかいそれは、多分何かの花びらだろう。
 桜が帰ってくれば、きっと起こしてくれるはずだ。その時の彼の気分次第で僕は殺されるかもしれないが、少なくとも僕は花壇を荒らしていないし騒がしくもしていないので大丈夫だ。根拠のない自信を抱き、僕は眠る。

 桜のにおいが、した気がした。

 

***

 

 今日も一仕事して疲れた、と町の男が言っていたが、俺はこれを一仕事だとも、疲れるとも思ったことは一度もない。ただ義務的に、事務的に。男を撃った。女を撃った。子供を撃った。老いた夫婦を、この手で殺した。手のひらに伝わる振動、耳の奥が痺れるような銃声はうるさくて嫌いだったが、その後に訪れる一瞬の静寂は嫌ではなかった。人を殺し続けていると殺人に快楽を見出す人間もいるらしいが、俺はこれを楽しいと思ったことはない。人間は誰でも死にたがっている、とどこかの本に書いてあった。誰しも罪悪感を抱いて生きている、と。俺は人を殺した事に対して罪悪感を抱いた事はない。例えば鳥が空を飛ぶことや、魚が海を泳ぐのと同じように、俺は人を殺す機関にすぎない。鳥が飛ぶ事に疑問を抱くだろうか?答えは、否だ。
 返り血が飛んだ頬をこすると、鉄の匂いがして眉に力が入る。この匂いにはどうも慣れそうにない。死に対する恐怖からではなく、ただ、生理的に受けつけない。

 拳銃を仕舞い、今日の夕飯はどうしようか、と考えながら家路につく。極まれに若葉が彼女の両親から持たされた食事を分けてくれることもあるが、生憎今日はなさそうだった。家の前の花壇に咲く花が、平穏無事に綻んでいることに安堵を覚える。一度、これを踏みつけた奴がいたが、花はその程度では死んだりしないようだった。たった一発の弾丸で死んでしまう人間の何倍も力強いと感じた。
 花壇から顔を上げて、ようやく家に人がいることに気付いた。家というか、庭の椅子に、だ。
 そこにいたのは伊藤という男だ。ついこの間島へやってきて、優午の事件を解決したあと島を出たらしいが、最近また戻ってきた、と日比野という男が嬉しそうに語っていたのを聞いた。この島に外から人が来るのは滅多にないことなので、島民がよく噂している。やわそうな男だ、とけなしていた奴もいれば、中々かっこいい、と騒ぐ女もいる。日比野とよく歩いているところを見るので仲がいいのだろう。この間は、轟の仕事を手伝っていた。音楽をこの島へ持ってきた人間の、恋人だった男だ。
 その伊藤が、何故俺の椅子で寝ているのだろう。いつから寝ているのだろうか。少なくとも、ついさっきの話ではないらしい。彼に積もった桜の花びらが、それを安易に語っている。
 顔のあたりに降っている花びらを払うと伊藤が小さく身じろぎをした。ぱらぱらと花びらが舞う。それでも起きる様子はない。
 今日の夕飯の前に、彼をどうするかが先決だろう。起きれば勝手に帰る可能性もあったのだろうが、気付いたら彼を抱き上げて家の中へと連れていた。自分のあまりの突発的な行動に驚く。何故、俺が。彼を家に招かなくてはならないのだ。しかし俺の足は俺に反抗するかのように歩いて行く。ベッドにそっと置いて、それでも起きない伊藤に、心の中で拍手を送った。
 さて、これから彼をどうしようか。

 

***

 

 バニーガールを追いかけていたらいつのまにか家にいて、日比野が台所で料理を作っていた。ぐつぐつと煮える鍋をかき回しながら、女みたいな裏声で「あなた、ご飯よ」なんて言うものだから、僕は思わず「君は僕の妻じゃないだろう」と突っ込んでいた。きっと日比野が、いつも僕の家に無断で入って来るからだ、と思って、目が覚める。
 前もこんな事があったな、と眠い目を擦りながら、ふと気付く。ここはどこだろう。ふわりとした感触に驚き、ばっと起きあがる。白いシーツに、ベッド。僕の家でないことは明確だった。そして上から降ってきた声に、僕は飛びあがる事になる。

「伊藤、おはよう」

 低く、透き通るような声に僕は驚く。声の主は桜で、ベッドの前の椅子に優雅に長い足を組んで、本を読んでいた。ああ、あれは確か、僕が薦めた本だ。
 待ってくれ、僕はどうしたのだろう?まだ夢にいるのだろうか?確か、たしかそうだ。桜の椅子で眠ってしまった。ほんの数時間で椅子がベッドに変わるわけがない。そもそも椅子は細胞分裂をしないので、椅子は一生椅子のままだ。

「伊藤?」

 桜が本を閉じて、僕の顔を覗きこんできた。なんだかめまいがするようだった。ここが彼の家なのだと仮定すると、彼が僕をここへ連れ込んだということになる。僕は夢遊病患者ではないはずなので、たぶん、彼手ずから。
 桜がもう一度、「伊藤」と言った。問いかけているわけではない。確認するように僕の名を呼ぶ。顔を上げると、桜が無表情を顔に張りつけて僕を見ていた。

「桜?」
「他に誰がいる」
「ええと、僕、とか」
「自分に『桜?』と問いかけるほど、お前は馬鹿なのか」
「そうではないと信じたい」

 小さく深呼吸をしてようやく訪ねることができる。「ここは桜の家かい?」桜はやはり頷いた。彼の長い髪がさらりと流れる。ここが桜の家だとして、それは僕がここで寝ていた理由にはならない。

「なんで僕は桜のベッドで寝ていたの?」
「その前に伊藤は俺の椅子で寝ていた」

 そうだね、と僕は頷く。そう、僕は桜の椅子で寝ていたはずなんだ。まさか桜が僕を起こさず、更に家に上げてくれるとは思ってもみなかったので、僕はとても混乱している。だが、長居するわけにもいかず、しかもここは桜のベッドだという事に気付き慌ててベッドから出た。その時にぱらぱらと何かが舞った。
 桃色の、花びら?

「うわっ。ごめん桜。花びらがついてたみたいで」
「ああ、知っている」
「掃除をするから、掃除機とか貸してくれないかな」
「いらない。それよりも、伊藤が動くと余計に散る」

 どういうことか意味が分からなくて、僕は首を傾げる。すると、上からぱらりと桜が降ってきた。まさか家の中に桜が咲いているわけでもあるまいし、と僕が上を見るとまた降ってきた。
 そして、気付く。僕が桜をまいているのか?上着やズボンを見ると、見事に縮こまった花びらがくっ付いていた。なるほど、僕が動けば桜が舞うわけだ。
 慌てて玄関へと走るが、もう時は既に遅く、廊下からここまでに点々と花びらが落ちている。「本当にごめん、桜」というと、彼は本当に気にしていないように「大丈夫だ」と言う。でも、この掃除をするのは結局桜なわけだし、とごにょごにょ言うと、桜は僕の頭を触った。桜の手には僕の頭についていたと思われる花びらがある。

「伊藤から桜の匂いがする」

 それはいい匂いだと褒めているのか?僕は柄にもなく恥ずかしくなってしまった。頬に熱が集まるのが感じる。「顔が赤いな、桜みたいだ」と桜が薄く笑った。桜なのはきみじゃないかと、赤い顔で僕は悪態をつく。あくまで心の中で、だが。

 僕はもう一度桜に謝って、勢い余って「今度お詫びをしに来るから」と口から零れ落ちていた。玄関まで見送りに来てくれた桜は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それからまた無表情になる。そのあとで、「待っている」と一言静かに告げた。

 これで僕はもう一度桜の家に行かなくてはならないことになる。桜の笑った顔が、暫く脳裏にこびりついて離れなかった。偶然道で会った草薙青年に、「顔が赤いですよ伊藤さん、風邪ですか」といわれ、僕はますます赤くなる。

 

 

 


2014/3/26にpixivにアップしていたものを再掲.
桜伊は魂のCPです..

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