ワンライに加筆修正をしたもの.

1.『はじめての』『二度寝』 – ドフラミンゴ
2.『炎天下』 – ドフラミンゴ
3.『視線の先』- ドフラミンゴ
4.『ソーダ』 – ロシナンテ

 

 

『はじめての』『二度寝』

 

 自慢じゃないが、僕は世界中の海賊の中で最も規則正しい生活をしているという自負がある。
 そもそも海賊とかいう集団には時間の概念はあまりない。日の出と共に目覚め、日の入りと共に眠り、さもなくば深夜まで騒いで昼まで寝てる者もある。すべきことさえしていればどう過ごしていても自由なのが海賊という生き物だ。
 けれど僕は時計よりも正確に規則正しく生活するのが好きだった。ぴったり深夜零時に眠り、午前五時に目を覚ます。目覚まし時計が必要だったことなんて一度もない。機械のように正確に生きるのは呼吸をするより楽だ。僕にとってはこれがなによりの自由でもあった。
 そんな生活をかれこれ二十年以上は続けている。
 深夜まで遊び惚けているファミリーたちは僕を「子どもみたいなやつだ」と笑ったけれど、朝の五時に敵襲があったらまともに動ける僕の勝ちだという自負がある。今に見てろと思う日々だ。(彼らが眠たいぐらいでパフォーマンスを落とすわけがない、というのは重々理解した上で)
 さて、今日も五時ぴったりに目が覚めた。季節にもよるが、今ぐらいの時間ではまだ朝日は顔を出していないことが多い。素足で部屋を歩くと床からの冷気で足がパキンと凍り付く。適当なコートを羽織り、音を立てないように部屋を出る。行きがてらに談話室を覗くと、昨晩も深酒をした者たちの遺骸がゴロゴロ転がっていた。敵襲、今すぐ来ないだろうか。
 城の門を超え、薄暗く、深い眠りの中にある街を足音を立てないようにそろそろと歩き、海へ向かう。朝起きてすぐに海に散歩に行くのは、僕が毎日行うことの一つだった。海の上にいる時を除き、この習慣はかかしたことがない。
 夜明けの海など船の上では飽きるほど見たものだったが、砂浜を踏みしめながら見るのもまた違った趣がある。僕は生来船のような不安定な場所での生活に向いてないのかもしれない、と思うのは、ドレスローザでの生活が安定してきた今だからこそ思う。だからってファミリーを抜けようとは思わないし、キャプテンが海へ出るというのであればついていく所存ではあるのだけど。
 冷えた指先に血が通い始めた頃に海に着く。日が出る時間は遅くなっていく一方だ。このぐらいの時間だと、涼しいばかりでなくもはや少し寒いぐらいだ。
 海の向こう側がじんわり白んできたところで、ふと、大きな鳥がこちらへ向かってくるのが見えた。危険がありそうなら撃ち落としてやろうか、と構えたものの、すぐに警戒をとく。あれは鳥ではなくドフィだ。おそらくまっすぐ城へ向かっていたのだと思うけれど、僕が手をふると気付いてそのまま降りてきてくれた。また好き勝手遊びに出ていたらしい。全くどこまでも自由な人だ。
「おはようドフィ、今日も美しいね」
「ああ……お前が早起きなのは知ってたが本当に早いな。いつもここに来てんのか?」
「雨の日以外はね。きみもずいぶん早起きなようじゃないか?」
「フフ、そんないいもんじゃねえさ」
 濃い血のにおいはこの男が上から降ってきた時からずっと漂っていた。黎明の中でもはっきり分かるぐらいに彼の衣服にはべっとりと返り血がついていたし、それは肌や顔にまで及んでいる。頬についた血の痕に触れてみるとパリパリと乾いていて、こすったぐらいでは落ちなさそうで我がことのように気が萎える。
「早く帰ってシャワーを浴びた方がいい、ひどい匂いだよ」
「フッフッフ。一緒に入るか?」
「いいね。でもきみにコーヒーを淹れてあげたい気分だから遠慮しておく」
「つれねえなァ」
 彼の背にある海にぽっと火がつく。水平線が青白く燃え始める。ドフィは僕を持ち上げて、糸で一緒に空へと上がった。ミニチュアになった家々からそろそろと人が起きだす様子はままごとのようで面白い。ふと思いついて僕が指先で人をつまむふりをすると、ドフィがふざけてその国民を操ったので慌てて止める。いたずらに彼らを脅かすのは得策ではない、と言っても彼に反省した様子はない。

 

 

 シャワーから戻ってピカピカになったドフィはなんだか眠たそうだった。コーヒーをすする僕を緩慢な動きでじとっと見つめてきたので、「眠いならコーヒーは止めておく?」と聞くと、彼は僕の飲んでいたカップを奪って一息に飲み干してしまう。
「君の分はそっちにあったのに」
「人から奪った方がうまい」
「そうか……?」
 僕にはそういう独善的な感覚は分からない。まだ飲み途中だったのに、と文句を垂れ、仕方なく満杯の方へ手を伸ばそうとして、結局それもドフィの手によって阻止された。
 僕の腕を掴み、大きく口を開けあくびをしている男は構わずすたすた歩き出す。放っておいたマグカップの所在が気になるところだ。あとで、「置きっぱなしにしたのはだれ!?」とベビー5に詰められる自分の姿が容易に想像できた。
 連れていかれた先は彼の寝室であった。彼はサングラスを外して適当にデスクの上に放ると、僕ごとベッドにダイブする。衝動的に瞑った目をおそるおそる開くと、ドフィのまぶたは既にまっすぐ下りていた。
「僕は寝ないよ」
「好きにしろ」
 眠い時特有のもたもたとした声でそうこぼす。身を清めすっきりしたせいか、彼の眠気はとうとう限界にきているらしい。もぞもぞシーツを頭まで被ったかと思うと、数秒もすれば穏やかな寝息が聞こえ始めた。僕がここに連れてこられた意味は本当に特にないらしい。
 ふと、カーテンの隙間から僅かに零れる光が気になった。彼が起きたらかわいそうだ、と思って下の方までピッチリと揃えて閉じてやる。ついでにつけっぱなしの明かりも一つ一つ丁寧に消してゆき、夜と変わらぬ暗さの中、手探りで僕は再び彼の隣に寝ころぶ。
 結局朝のコーヒーはほとんど飲めず、花に水もやれていない。楽しみにしていた本の続きはどうなっただろうか。新聞は……。さまざまな朝のルーティーンを頭に思い浮かべては、今日は全て放棄することになるのだろうな、と少しだけ残念に思う。
 けれど、嫌な気分ではない。
 好きにしていいと言われたし、猫のように眠る男を放って部屋を出ることはいとも容易い。だけど、なんとなく、彼が起きたときにここにいてあげたいと思ったんだ。たとえふだんのルーティーンが崩れることになったとしても。
 すう、と息を吸うと、眠っている人の匂いがして心が丸くなる。シーツの中に潜り、彼にぴったりくっついて目を瞑る。眠っている人は温かい。僕が冷たかったのかドフィは最初嫌がるそぶりを見せたが、徐々に熱が伝わるとドフィの大きな手は喜んで僕を胸の内に迎えてくれた。寝しなのぼんやりとした意識のドフィは僕の髪に手を差し込んで自分の方へ引き寄せる。
 眠気は全くなかったが、目を瞑ってこうしているだけで身も心も落ち着くものだ。彼を起こしに誰かがやってくるその時まで、彼の寝息に耳を傾けるとしよう。
 なんて思っていたのだけど。そのあと結局眠ってしまい、僕は初めて誰かに起こされるという経験を得たのであった。

 

 

 

『炎天下』

 

 ヌマンシア・フラミンゴ号が向かう先は夏の夏島だ。風の流れがいいのであと数時間もすれば着くだろう、と航海士が告げた通り、時間が経つにつれて気温があがり、太陽の熱はじりじりと力を増している。朝の内は何人かが甲板でくつろぐ姿が見られたものだが、太陽が真上にきた今となっては残ってるのはおれぐらいになってしまった。
 時々、高い波が船にぶつかると僅かなしぶきがパラパラと降り注ぐ。それが蒸発している間だけ、ほんの僅かに涼しいと思う。それ以外はひたすらに暑いばかりだ。ひっきりなしに体中の汗腺から噴き出る汗が、おれのいる場所を床に記し続けている。
 船室から続く戸が開く音が聞こえ、顔をあげるとずいぶんと涼しい格好のドフィがこちらに近づいてくるのが見えた。普段身につけている羽毛のコートもこの時ばかりはお役御免らしい。サングラスをつけていてなお眩しいのか、眉間に皺を寄せ、口許は笑いながら彼はおれの名を呼んだ。
「こんなとこにいやがったか、なまえ」
「どうしたんだ、何か用か」
「用はねえが……フフ、暑くねえのか」
「あっちーよそりゃ、でもそれが?」
「いい、ってか?そりゃあトレーボルの口癖だろ」
「やってみたかったんだ」
「物好きなやつだ」
 ドフィは言いながらおれの隣にどかりと腰を降ろす。手には汗をかいたビール瓶が揺れていたけれど一つだけで、どうやらおれの分ではないらしい。
 用がないのは事実なようで、ドフィは適宜瓶を傾けるばかりで何かを語る様子はない。わざわざ飲み物を持参したということは暫く居座るでもあるつもりらしい。彼の痛いほど白い肌がこのやり取りの間に既にぼんやり赤くなっていて、「焼けてる」とつい口から零れた。
「戻ったほうがいい、ドフィ」
「フッフッフ!おれの日焼けを気にするのなんてお前ぐらいだ」
「でも、夜になったら痛くなる」
「慣れてる」
「あ、だったら――」
 言いかけたところでばしゃ、と再び高く波が上がり、おれたちの頭上に降り注いだ。かなり高い波だったから、結構な量の水がかかった。ふとドフィを見上げると、彼は嫌そうな顔をしながら頬についた海水を拭っている。
 その様子を見て、さっき言いかけた言葉がすぼんでいく。忘れていたわけではないけど、普段から特別気にかけることもなかったので危うく嫌味なやつになるところだった。
 おれが黙ったのをドフィは気に食わなそうに見た。なんだ、と一段低くなった声に、慌てて弁解する。
「こんな風に熱された身体をさ、冷たい海に浸すと気持ちがいいんだ。だからドフィもどう、って誘おうとして」
 目的の島についたらおれは一目散に海に飛び込むつもりだった。取引があるのは夜だというのは事前に聞いていたので、それまでは一歩も海から出ない心づもりですらあった。海の表面はいくらかぬるいかもしれないが、潜っていくたびに温度はぐんぐん下がるだろう。その時のために今燃されてるといってもまったく過言ではない。
 もぞもぞと尻すぼむおれの言葉に、ドフィはさして残念でもなさそうな声で「ああ……そりゃ残念だった」とこぼす。彼はもともと海の近い暮らしをしているわけではなさそうだから、こういう楽しみ方にはとくに興味がないのだろう。暑いのだってそんなに好きでもないはずだ。だというのに、この男がこうしてここにいるのはたぶんおれがいるせいだ。
 ドフィはコラソン……彼の肉親である男がローを連れていなくなってからちょっとだけ気持ちが不安定だった。ファミリーの誰かが自分の目のつくところにいないと探しにくるぐらいには。
 おれはそう簡単にいなくなったりしてやらないというのにね。
 太陽はまだ高く、名残惜しさに後ろ髪をひかれながらも立ち上がる。ドフィはおれを見上げ、口を結んでおれの言葉を待っている。
「ドフィ、キッチンへ行こう。なにかフルーツを剥くよ」
「ああ?フルーツ?」
「あのさ、これは持論なんだけど、果物っていうのは切ったり剥いたり種を除いたりするから大変な食べ物だと思うんだ。果物を誰かが剥いてやる、って言ったら、それはもうめちゃくちゃな愛なんだ」
 自分が食べるだけだったら他に食べやすいものはいくらでもある。ましてや他人のためにだなんて、余程のことがないかぎり絶対にしたくないものだ。手が果汁で汚れるし、ゴミだって適切に処理しないとすぐに虫が湧く。
 でも。
「ドフィがずっと見えない愛をくれるから、おれは目に見える愛をあげたくなったんだよ」
 おれが手のひらをひらひらさせると、ドフィは促されるように自分の手を見る。男は自分の手の甲がじんわりと赤くなっているのを認め、顔を覆ってフフフと笑う。
 身長差のあるおれとドフィが横並びに座れば、自然とおれは彼を見上げる形になる。となればほぼ真上にある太陽はおれの目を容赦なく焼くだろう。彼の親切心か、あるいは無意識だったのかはわからないが、おれがドフィを見つめている間じゅう、彼は自分の手のひらをずっとおれの目元にかざしてくれていたのだ。
 王のために身を砕くのは家臣の努めであるべきだ。だからこそ、与えられた愛を凌ぐもので彼を安心させてやりたいと思った。
 ドフラミンゴはおれに続いて立ちあがり、鼻歌でも歌いそうなほど楽しそうについてくる。いとおしいカンカン照りに手を振って、おれは船内に続く戸を閉めた。

 

 

『視線の先』

 

 くゆる煙を見つめる。その先にいるのはおかしな恰好をした若の弟とかいう人だ。確かにくすみの入った金の髪や背格好はよく似ているし、おれからすれば信じられないドジを踏むのも、若曰く「昔と変わらねえなあ」とのことなので確かなのだろう。この世界には誰かに偽装する方法なんてのは腐るほどあるが、若が弟だと認めたのであればおれに口出しできることはない。
 コラソンは若とは違って煙草を好む人だった。だというのに火をつけるのが異様にへたで(いやもうへたとかいう次元じゃないんだけど)、ひどい時はちょっとしたボヤ騒ぎになるため、喫煙者がそばにいる時は代わりにつけてやるのが暗黙の了解みたいになっている。ヤニ仲間のセニョールは誰かに大人しく火を差し出すようなやつじゃないから、必然的におれがコラソン専属の煙草係になった。
 不満がないかといえば、あるに決まってる。めちゃくちゃある。おれがこの身を賭してお仕えしてるのはドンキホーテ・ドフラミンゴただ一人で、血の繋がった弟だからってそれが適用されるわけじゃない。若からすれば血を分けた実の弟でも、おれからみたら若に妙に気に入られてるポッと出の新人だ。
 最初の頃はあまりに嫌すぎたのでコラソンの煙草を隠したりキャンディにすり替えたりもしたのだが、どちらも若に怒られたのですぐに止めた。仕方なく火をつけてやるようになって、ふとおれはとあることに気付いたのだ。
 あれ、もしかしてコラソンってーー。
 そこからおれはコラソンの煙草係を進んでやるようにすらなった。アイツの煙草に火をやって、向かいに立っておれも煙草をぷかぷかふかす。頭の裏側がじんと痺れる。煙に巻かれているコラソンをぼんやりと眺めていると、喉の奥がぎゅうっと縮むような感じがする。互いの焦げた匂いが尽きるまで、その時間はゆっくり続く。
 足先からゆっくりと視線をあげ、目が合う寸前になるとコラソンはすっと目を逸らしてしまう。おれは目が合うまでじっと見つめる。男の目の色が分かるまで。

 

 

「コラソンから苦情が入った」
 と言われたとき、俺は本当に何のことかサッパリ分からなかった。おれが苦情を入れるなら百歩譲って分かるとして、アイツにおれの何が不満なんだ、火だって毎回つけてやってるのに、と内心むかっ腹が立ったのが顔に出たのか、若は楽しそうにフフフと笑う。
「ずいぶんと仲がよくなったんだな」
「え?ああ……まあ、多少は」
「フッフッフ、惚れた腫れたは自由だが、あまり弟を困らせてくれるな」
 かわいそうだろう、とそんなこと少しも思ってない様子で若はおれの肩をポンポンと叩く。おれは何を言われたか全く理解ができなくて、言葉を失っている内に若は踵を返してしまって誤解をとくことは叶わなかった。惚れた腫れた?一体なんのことだろう。
 おれは改めてじっくり最近の自分の様子とコラソンの置かれている状況を考えてみて、なるほど、と理解する。まるでおれがコラソンに、……この先はまるでおぞましくて思うことすら嫌である。
 というか、嫌ならおれに直接言えばいいのに。どうして若にチクるような真似を、と考えて、その答えにも自然に至る。誰がどう見たっておれは若以外の言葉を耳に入れるような人間ではない。
 もしかしたら他のファミリーからやんわり言われてたりするんだろうか、と振り返ってみるも、若の言葉しか思い出せなくて断念した。

 

 

『なぜ見てた』
 と書かれたしわくちゃの紙を眼前に差し出されたのは、コラソンにくだんのことを謝罪してすぐだった。紙がよれているということは、以前からこれをおれに突き出す機会を伺っていたということだろうか。そんなに気に病ませていたとはついぞ思わず、流石に少しだけ同情心が芽生える。
 誰にチクられて困ることでもなし、と思い、おれはコラソンと自分の煙草に火をつけて、男の隣に並び立つ。人の気配と、ぼんやりとした熱。いつもより濃い、おれのじゃない煙草の匂い。最初の頃は火をつけてやってすぐどっか行ってたから、こんな風に並んで吸うのは初めてかもしれない。
「若は煙草を吸われねえだろ。……もし吸うんであれば、きっとお前に似てるんだろうな、と思ったんだ」
 おれは若がつけてるサングラスの先を拝めたことはないから、実は全然似てないよ、ってどっちかに否定されたらそれまでだ。でも、血をわけた兄弟であるなら多少なりとも似ている部分はあるんじゃないかと思った。若の痕跡を探すために、ぶしつけにじろじろ見てしまったという自覚はある。
「一回ぐらい本物を拝んでみたかったが……おれはファミリーに入って日も浅いし、だからお前で満足しようと思ってたんだ。でも代わりにするのはなんか違うよな」
 フー、と煙を吐く音だけが耳に届く。コラソンは声がないからどんな反応をしたのか音で判断することはできない。隣を見上げるにしたって背の高さが違うからはっきりとは分からない。改めて、正面に立つというのは実に贅沢な鑑賞方法だったのだなと気付いて寒気がする。家族を”鑑賞”、などといって軽率に消費したことを猛烈に後悔し始めた。
「不気味に思わせて悪かった。もうしないよ」
 前を向いて、煙を吐く。結局それ以上コラソンから追加の紙をもらうことはなかった。

 

 

 久々にゆっくりした時間が過ごせている。やってきたのはバカンスに適した気候の島で、取引相手が賢いおかげでとくに問題も起きずすんなりと交渉は成立した。一度ドンパチが始まればまともに島には滞在できないし、これほど美しい島を荒らすのも心苦しかったので安心した。
 ファミリーの人たちは各々好きなことをしているだろう。昼間まわっただけでは見切れないほど店はあったし、子どもらの頼みで島内にあるホテルに宿泊する者も数名いる。こんなとこまで来て船の見張りを願い出る変わり者はおれぐらいであった。
 ド派手な船は海の上でもたいそう目立つ。観光客用のクルーザーが通りかかるたびに、無邪気にこちらに手をふるガキと、青い顔でそれを諫める親に手を振り返していたらあっという間に辺りは薄暗く静かになった。足元の灰皿には吸い殻が山のように連なっていて、潮が満ちるのに似ているな、とぼんやり思う。
 不意にコツ、と物音がしたので警戒して振り返ると、そこにはいつもより気崩した恰好の若がいた。若はおれの足元の山を見て、「島に出ねえのか」と聞いてきた。
「反省しようと思って」
「反省?」
「若以外の言葉もちゃんと聞いておくべきだったから」
 あれからファミリーの人に調査をした結果、おれのコラソンへの態度についてたびたび忠言をくれていたそうだ。歯に衣着せる言い方をする人たちじゃないから、おそらくはっきりと言っていただろうに、おれはその言葉に全く聞き覚えがなかった。とくにグラディウスは何度も苦言を呈していたらしく、おれが聞いていなかった、というと心底軽蔑の視線を寄越した。
「フッフッフ。おれの言葉さえ聞けたら問題ねえよ」
「でも、若の弟にも迷惑を」
「アイツは迷惑とも思っちゃいねえだろ」
 そうですかねえ、とふてくされた勢いで煙草を吸っていると、隣から「ああ、そうだ」という涼しげな声とともに手が横から伸びてきて、おれがくわえていた煙草を指でつまむ。
「え、」
 とおれが声をこぼすと、にんまりと笑った若がそのままおれがくわえていた煙草をふかし始めた。
 若の呼吸に合わせて煙草の火はチリチリと進んでいき、彼の形のいい唇から白い煙が蛇の舌のようにちろと覗くのが見える。
 おれがずっと見たかったものが急に目の前にあらわれて、口をはくはくとあけることしかできない。言葉をなくしたおれに向かって、若は色っぽい声で、
「このぐらいならいつでも見せてやるから、次からは直接言うんだな」
 と、おれの顔に煙を吐きつつそう言った。

 

 

『ソーダ』

 

 周りが見えていなかったおれも多少は悪いのかもしれない。
 ちょうど腹の据わりが悪かった。どしどし歩くおれの姿を見たネコが唸ってキバを剥いてくるぐらいには不機嫌のオーラがまとわりついていたのだと思う。もともとガラは悪い方だが、普段であればもう少し愛想もマシであったはずだ。とにかくタイミングが悪かった。
 怒りも苛立ちも絶好調の折に頭に勢いよく固いものがぶつかったかと思うと、中身と思しき冷たい液体が頭全体を余さず濡らした。足元にゴロンと転がる透明な空き瓶に、全てを理解した時には堪忍袋の緒が音を立てて切れていた。
 歯をギチギチと食いしばりながら振り向くと、後ろには背の高いどんくさそうな男がいた。年齢はたぶんおれと同じぐらいだ。前髪が長くて表情は分かりづらいが、ぽかんとした後、慌てて「悪い!」と謝ってきた。つまりこのソーダ水を瓶ごとぶつけてきたのが目の前にいるこいつってわけだ。
「てンめえ……何しやがる!どこの誰だ、階級はァ!」
「すみません!ロシナンテ少佐です!」
「少佐だァ!?ってことは上官じゃねえかクソが!すいませんっしたァ!」
「え!?あ、ああ!いや、こっちこそ飲みもんこぼしちまって」
 ドジった、と小さく呟いたのが聞こえた。全く、やっと本部勤務になれたというのにこの有様である。クビか、もしくは遠くに飛ばされるのだろうかと考えていると頭痛はどんどんひどくなる一方だ。
 髪からびたびたと落ちてくる甘ったるい匂いに胸が気持ち悪くなってくる。思わず胸を抑えると、ロシナンテと名乗った男がおれを見て不思議そうに何かを言った。口は動いているのは分かったが、何を言われたのか全く分からない。声は聞こえるが水の中にいるように茫としていて焦点も定まらない。目の前がかすんで、「おい!」と大声で叫ぶ男の声を最後におれの視界はひっくり返る。

 

 

「ぅあっち!」
 という声でハッと意識が揺り起こされる。なんだ、と周りを見回すと、先ほどの上官の肩口がなんでかめらめら燃えている。寝起きでろくにまわらない頭でとりあえず必死に火元をバシバシ叩くとようやく火は消えた。部屋じゅう焦げ臭いし頭は痛いし手は火傷するし、何もかもが最悪の目覚めだった。
 一息ついて辺りを見回す。医務室にでも連れてきたのかと思ったがどうやら違うらしい。そこはソファとローテーブルと小さな棚があるだけの簡易的な部屋だった。
 寝起きの頭を掻きむしると手がベトついて思い出す。ついでに甘い匂いが再び舞って嫌な気分だ。目の前にいる男はようやく本来の目的である煙草に火がつけられたようで、おれの様子を何とはなしに伺っている。
「あの、ここどこなんすか?」
「秘密の隠れ家だ」
「はあ?」
「う、うそだよ……休憩室だ」
 海軍将校になると使えるようになるところだと教えてくれた。本部は大きいからこういう休憩室みたいなところがいろんなところにあるらしい。なるほど、時々上司がどこを探しても見つからないことがあると思っていたがこういう部屋に隠れていたらしい。まったく迷惑な話である。
「で、ロシナンテ……少佐は、どうしてここにおれを?」
「目の前で倒れたのをほっとくわけにもいかねえだろ」
「なら医務室へ連れて行ってくれたらよかったのに」
「いやー、医務室、こっから遠いんだよな……」
 面倒臭かったってことだろうか。案外いい加減なやつだな、と思う。年のころはおれとあまり変わらないように見えるが、少佐にまで上り詰めているところを見るにきっと優秀なのだろう。今までの様子を見ているとそうも思えないが。
 少佐はおれに手ぬぐいを渡しがてら、じろじろと顔を見つめてくる。なんだよ、と顔を顰めると、ああいや、と弁解するように両手をあげた。
「顔色が悪いと思って。寝不足か?」
「そんな感じです。最近、あんま眠れてなくて」
「それでそんなでっけえクマ作ってんのか」
 男はおれの顔に手を伸ばし、目の下を指で優しくなぞった。疲れていたところを労わってもらえた、というだけで、いとも容易く絆されそうになって妙に焦る。彼の手はおれと同じぐらい荒れていて、海軍になんていたらつるつるの肌でいられるわけがないんだけど、その乾燥した皮膚が肌を滑っていくのが思っている以上に悪くない心地だった。
 さっきまで爆睡していたとは思えないほど居心地が急に悪くなり、おれは慌ててソファから立ち上がる。
「えと、じゃ、世話んなりました。おれはもう行きます」
「え、もう行くのか?もっと休んできゃいいだろ」
「勤務中なんで」
「お前が倒れたのはいろんなやつが見てたし、もう少しぐらい休んでってもバチは当たらねえって」
 どちらにせよ、誰かがいる時点でおれはぐっすり眠ることなど不可能だ。気を失うという形であれ少しは眠れたのだから、仕事をしてしまった方が楽な気はする。どう断ろうか考えていると、同じくむむ、と目を瞑って考え込んでいたロシナンテが、
「よし分かった。じゃあ、一時間だ」
 と言って手を叩いた。
「何がです?」
 とおれが問うと同時に、ロシナンテがサイレント、とつぶやくと、透明なドーム状の壁のようなものが出現する。おれが驚きで目を丸くしていると、「ナギナギの実の能力だ」と男は得意げにピースした。
「ナギナギ」
「そう。こん中にいるかぎり外の音は聞こえねえから安心して寝てろ」
「はあ……」
 確かにこの球体の中は信じられないぐらい静かだった。抗いがたい魅力があり、一時間ぐらいなら残業すりゃいいか、と自分をごまかしてロシナンテの隣に座る。
 大きな窓から、暑すぎない程度の日差しが差し込んでくる。じわ、と指先まで血が通っていくにつれ、一度は身を潜めた眠気はあっという間にぶり返してきた。目を瞑ると、目の奥に痛みに似たじくじくとした重みを感じる。
 ふと、自分のすぐそばからソーダ水の甘くて柔らかい匂いがかすかにして、思い出した。そういえばこの人これを飲もうとしてたんだっけ。おれにかかったせいで結局飲めなかったんだ。休憩中に飲もうとしてたのかな。楽しみにしていたのに飲めなかった挙句、おれのような若輩の世話までするはめになったのか、と思うと多少は同情する。
 おれにこぼしたのはこの男の不注意だとして、やはり声を荒げたのはよくなかったかな。
 不眠というのはそれだけ人から理性を縮めるものだ。同室のやつのいびきで眠れないのだったら、おれはさっさと部屋を替えてくれというべきだったんだ。起きたら懇願してみようか、もしだめだったとしても、せめて寝る位置を離してもらえないか提案してみることだってできる。なんだってしてみなくては分からない。起きたら、やるだけやってみよう。
 起きたら、起きたら。
 一番にすべきはこの人への謝罪だろうか。
 どろどろに溶けていく意識の向こう側、
「おやすみ」
 という彼の声は、泣きそうになるほど温かかった。

 

 

「先日はありがとうございました」
 と言ってソーダの瓶をダースでロシナンテ少佐に押し付ける。最初は一本だけにしようと思ったのだが、もしかしたらまたこぼすかも、足りないかもと余計な気をまわした結果、あって困ることはないかとひとケースまるごと買い取ることになってしまった。重たいしガチャガチャ音がしてうるさいしでなんでこんなことしてるんだろうと思ったが、この男の弾けるような笑顔を見たらそんなのは全て些末なことである。
「うわ!なんだこれすげえ!飲み放題だ!」
「好きなだけこぼしても大丈夫ですよ」
「いやもうこぼさねえよ! あ、一緒に飲んでくか?」
「え?……じゃあ一本だけ」
 本当は絶賛勤務中であるのだが、最近部屋が変わって寝られるようになってから仕事の効率があがりにあがった。おれって有能だったんだなと自覚できるぐらいには。有能なのでほんの数分のロスぐらいはロスにもならない。よって、このお誘いを断る必要は全くない。
 それからふと、なんとなくロシナンテが瓶の蓋を開けるのを眺める。鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌に見える男は、案の定、瓶の蓋を開けるときの勢いでステンと後ろにスッ転んだ。しかも今度は自分に中身をひっかけている。
 まさかとは思ったが本当にまたやるとは。しかも今度は自分に。頭からソーダをひっかぶった男を見て、じわじわと笑いがこみあげてくる。笑っては失礼かと思って我慢したが、とうとう耐えられなくてぶは、と吹き出してしまった。
「あっははは!何やってんだよ!」
「……おれはドジっこなんだ」
「っふふ、あー、そうっすか。たくさん用意しといてよかったすわ」
 新しい瓶の蓋を開けてやって、座り込んでる男に渡す。おれが持ってた方を差し出すと、ロシナンテは瓶同士をそっとコツンとぶつけた。
「そんじゃ、乾杯」
「何にだ?」
「あんたとおれの出会いに?」
「そりゃあいい」
 瓶をあおる。ピリピリとした炭酸が舌の上で爆ぜ、甘くとろけて喉に落ちた。

 

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